「中の家」とは・・・
この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称を「中の家・なかんち」と呼ばれている。
渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。
「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。
渋沢栄一と「中の家」・・・
栄一が23歳までを過ごした「中の家」は、茅葺屋根の主屋で、明治時代に農業の中心が養蚕になると建て替えられた。
その主屋は1892年、火災で失われ、1895年に現在残る主屋が上棟された。
晩年の栄一は、幼少期に自身も親しんだ血洗島獅子舞の観覧を楽しみに、獅子舞が奉納される諏訪神社の祭礼に合わせて帰郷して「中の家」に滞在した。
東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る数少ない場所といえる。
(旧渋沢邸「中の家」のパンフレットより)